私は一年半前に極真会館連合会関西本部から離れ「武道教育空手 天真会館」として独立しました。
武道教育空手 天真会館と言う名前にしたかについて一度話したいと思います。
私にとって空手は単なる技術を教え心身を強くするスポーツとしてのではなく武道として考えています。武道を通じて人格の向上を図る事を目的としています。
生徒さんが増えたり、大会で活躍するのは嬉しいことですが、私にとって何より嬉しいことは入学校などで虐められていた生徒が明るさを取り戻し目をキラキラとして伸び伸びと通ってきてくれることです。
天真という言葉は、曽洞宗の名僧である良寛和尚の漢詩「生涯懶立身」の中の言葉から頂きました。
武道教育空手 天真会館と言う名前にしたかについて一度話したいと思います。
私にとって空手は単なる技術を教え心身を強くするスポーツとしてのではなく武道として考えています。武道を通じて人格の向上を図る事を目的としています。
生徒さんが増えたり、大会で活躍するのは嬉しいことですが、私にとって何より嬉しいことは入学校などで虐められていた生徒が明るさを取り戻し目をキラキラとして伸び伸びと通ってきてくれることです。
天真という言葉は、曽洞宗の名僧である良寛和尚の漢詩「生涯懶立身」の中の言葉から頂きました。
良寛和尚は権威から離れ、世間の評価や体裁も気にせず、自由無碍(じゆうむげ)、無欲恬淡(むよくてんたん)とした生き方されました。
子供たちとよく手まりで遊んだという逸話で有名ですが、禅の道をひたすら厳しく求めた人でもある。
「天真に任す」とは、次の詩の一節である。すべてのこだわりを捨て、流れる水のように、空の雲のように、ただ自然の道理に身を任せようという意味である。
生涯懶立身 騰騰任天真
嚢中三升米 爐辺一束薪
誰問迷悟跡 何知名利塵
生涯身立つるに懶(ものう)く、騰騰(とうとう)天真に任す
嚢(ふくろ)には三升の米、爐辺(ろべ)には一束の薪(たきぎ)
だれか問わん迷悟(めいご)の跡、なんぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
大意はこんな感じです。
私は生涯、身を立て出世することなど面倒で興味も無く、ただ自然の道理に身を任せて生きている。
袋に三升の米と少しの薪があればもうそれでよい。
迷いだの悟りだのと、私にはもうどうでもよく、まして名誉や利益などつまらないものにはかかわりがない。
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